歴史を伝えることの大切さ                                木原邦彦

ボランティア観光ガイドを始めたきっかけ


 高校時代は、日本史にはほとんど興味が湧かないまま大学に進学し、地元に本社がある会社に入社した所、初任地の東京から始まり35年の間に山形と関東4県を行ったり来たりの転勤を10回繰り返しました。
仕事を上手く進めるためには、取引先を良く理解すること。そのためには、その土地の風土や県民性の特徴を知り、
地域の歴史をその場に行って肌身で感じる大切さを実感しました。
また愛読書も年と共に興味が広がり、海音寺潮五郎を読んだことから、歴史小説に特に惹かれる様になりました。
丁度、東京都江東区深川や東雲(現在のお台場周辺)に勤務地と住居があり、池波正太郎、藤沢周平を読むに至り、
小説の劇中に出てくる地名を自転車やバスで訪れ、江戸時代と現在に比較をして小説を立体的に楽しむ手法を会得しました。
関東での単身赴任中は、暇を見つけては自家用車で赴任地周辺の歴史的建造物を訪ねたりしていました。
そんな折、腰椎椎間板ヘルニアの手術受け山形に戻って来ました。
一時は歩行困難な状態でしたが、日常生活を支障なく過ごせるまでに回復しました。
リハビリは、とにかく歩くことでした。
ただ漫然と歩くより、「霞城まちなみ案内人」主催の歴史講座に参加しました。巡る地域は、小学校から高校まで遊び回った馴染みの地区ばかりでした。
ところが、先輩ガイドの方々が説明してくれる内容は、見るもの聞くもの初めてのことだらけ・・・。
「ガーン」と頭を叩かれた思いがしました。自分が肝心なことが何一つ知らない事実を目の前に叩き付けられました。自分が生まれ育った地域の歴史の基本を知らないことを『気づかされた』のです。
「そうだ、地域の歴史が子供達に伝わっていない」、「地域の歴史を伝える人が少ない」
新たなものを創り出すことは、とても重要なことです。同時に「歴史」を次世代に伝えたり、広く世の中の人にも知らせることの重要性に気づきました。
こんなことが、ガイドを始めるきっかけでした。
興味のある場所を自分の足で案内して、そのものが現在まで残っている時代背景やその当時の人々の思いを少しでも多くの方々に伝える役割が、ボランティア観光ガイドだと認識しています。

山形市の魅力

 人口25万人の小さな県庁所在地ですが、逆手に考えると「スモール イズ ベスト」に成り得ると思います。
(1) 街にゴミが落ちていない。
多くの山形の人達は、家の前の掃除は両隣りの一部を合わせてやることが、当たり前だと思っています。ゴミの無い所には、ゴミは捨てにくいものです。

(2) 日本の最大魅力である「四季」を雪を含めて、特に実感出来るし、食卓に上がる地元産物により四季を味わうことが出来ます。

(3) 伝統的な町区割りが現在まで残っている。

① 斯波兼頼が1356年に山形を開き、300年後に11代最上義光(よしあき)が基礎を築いた山形市の町区割りが大筋で残っている。

② 幕末の戊辰戦争の折、水野藩の首席家老、水野三郎右衛門元宣が一身を犠牲にして戦火から山形市内を守り抜いた

③ 明治27年と44年の二度にわたる大火があったが、それ以降、太平洋戦争時にも戦災を免れて現在に至っている。

山形市内の見所

 「お釜」や「樹氷」を含む蔵王の様々な魅力、東北における仏教伝来を具現化している山寺の魅力は言うまでもありません。
ここでは山形市内を歩いて回れる見所をお薦め致します。

(1) 山形城址(霞城公園)
『鍋底に位置する広大な平城城郭』
最上義光が基礎を築き、鳥居忠政が形作った城は、今は無き三の丸を含めれば、大阪城にも匹敵する雄大なお城だった。

(2) 旧済生館(山形市郷土館)
『イザベラ・バードが驚愕した建物』
山形県の初代県令(知事)三島通庸が明治時代の文明開化を「見える化」した東北初の医学校であり病院だった。
擬洋風建築物で「下見板張り様式」を代表するに相応しい国重要文化財である。

(3) 文翔館(山形県郷土館)
『復興のシンボル、希望の建物』
明治44年市北大火で初代県庁舎を失い、喧々諤々(けんけんがくがく)の論争の末、知事が3人も交代したいわく付の復興のシンボルである。日本に本格的西洋建築学をもたらしたジョサイア・コンドルの教え子の手によるイギリスルネサンス様式の総レンガ造り建造物。
県会議事堂と併せて国重要文化財である。

(4) 洗心庵(緑町庭園)
『まだ知られていない東北一の名園』
明治期に京都市南禅寺周辺を舞台に、近代庭園を確立した7代目小川治兵衛の甥である岩城亘太郎が昭和41年に完成させた池泉回遊式の庭である。

来園した現役作庭家達が、息を飲み込む「凄さ」を是非味わって下さい。

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